密教福祉とは何か “大楽福祉”

密教福祉研究会編『密教福祉−世紀を超えて−』(2001年)の原稿

西明寺住職・普門院診療所医師 田中雅博

最も楽な暮らし

 密教福祉が「弘法大師空海の思想に基づく福祉」だとすれば、空海の思想から福祉を考える必要がある。福祉(welfare)という言葉は、良く(well)暮らす(fare)すなわち幸福という意味である。苦しい暮らしよりも楽な暮らしが良いが、どのような生き方が幸福なのか。空海は秘密曼荼羅十住心論1)を著し、無数にある人の生き方を、苦から楽に向かって仮に十の綱目に分類された(九顕一密)。これは「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす」という三句に基づく住心の展開の次第でもある(九顕十密)。この三句こそが密教福祉の原点と考えられる。菩提(悟り)を原因とし大悲を根拠とした曼荼羅の展開である。そして最も楽な暮らしが大楽といわれる密教なのである。

良い生き方を選ぶ

 良いものを選ぶことを批判(critique)というが、現在我々は二つの強力 な批判方法を持っている。その一つは科学である。科学は反証可能性 (refutability)を条件とする2) 。いわば世界規模の間違い探しだ。間違 い探しにはテストが必要である。それで、実験と観測というテストを行い、 反証の試みがくり返される。このテストに合格している間は、その学説は正 しいとみなされる。テストに不合格になったら、その学説を捨てる。空海の 著作も必然的に反証可能な事柄を含むので、徹底的な間違い探しを行って改 めるのが我々空海の弟子の務めでもある。しかし科学という批判方法で扱え る範囲は限られている。実験と観測で反証不可能な事柄が無数にある。これ ら非科学的な(科学に非ざる)問題の代表として、人の生き方がある。反証 不可能だから答は沢山あることになり、その総体が曼荼羅である。間違い探 しができない事柄については、どのようにして良いものが選ばれるのであろ うか。これは長い間多くの人々に読み続けられ、さらに古典研究者によって 良いものとして選び続けられていくことによる。すなわち人文学(humanism) が、もう一つの批判方法である。この人文学の魁の一人が空海である。空海 は、人の生き方に関する文献を集めて研究し、それらを妄執を離れた度合い によって分類した。そして完全に妄執が無くなった密教においては、妄執の 有無という執着も無くなって、あらゆる生き方が平等となるのである。

渇愛縁起

 空海が人の生き方を分類する基準とした妄執は、仏陀の悟りに由来する。 仏陀の悟りは、苦の生滅に関する縁起である。ここで先ず釈尊の四諦を確認 しておきたい 3) 4) 5) 。苦集滅道の四諦は釈尊の説法を纏めたものである。 苦諦は四苦八苦であり、釈尊が問題とした課題である。四苦八苦は最後の五 取蘊苦に要約されるが、ここで取 は執着である。従って苦は、色受想行識という、我に関わる五つの執着の集 まりに要約される。次の集諦は、苦の生ずる原因であるが、これは「欲愛 と有愛(bhava)と無有愛(vibhava) の如くの渇愛」である。欲愛は男女の性愛、有愛は生存の渇愛、無有愛は死ぬ渇愛である。これらは、生殖と動的平衡(生存)と死という、現代科学での生物の定義にそれぞれ対応しており、生きている限りつきまとう渇愛である。ここで、苦(dukkha)は思いど おりにならないという意味の言葉であり、思いどうりにしたいという渇愛から思いどうりにならないという苦が生ずるのである。次の滅諦は、苦の消滅 であり、渇愛の消滅で無執着 である。渇愛が滅すれば苦も滅する。苦の生ずる原因が消滅すれば、苦も消滅す るのである。釈尊は十二支縁起によっても「渇愛によって取が生ずる、渇愛 が滅すれば取も滅する」と説いている。すなわち三つの渇愛が滅すれば、五 取蘊すなわち苦も滅するのである。次の道諦は、八正道で苦の消滅への道である。ここで、正 は「完全に」という意味であり、八正道は渇愛を完全に制御して生きる道である。その最初の 正見は四諦を完全に理解すること、すなわち悟りであり、最後の正定は心の働きの制御で完全な三昧 である。 同様に十二支縁起の無明も四諦についての無智であり、三昧によって四諦の 完全な理解すなわち明に至るのである。

玄奘三蔵「度一切苦厄」

 般若心経は現在も多くの人々に読み続けられ、空海も注目した経典である。 玄奘訳の般若心経には梵文テキストにない「度一切苦厄」の文字が加えられ ている 6)。他には玄奘が書き加えた文字は無いので、「度一切苦厄」は玄奘 の般若心経解釈の要である。一切の苦を離れることは福祉にも関係するので、 ここで「度一切苦厄」について考えてみよう。 「度一切苦厄」は「照見五蘊皆空」の後に加えられた。「度一切苦厄」は 「照見五蘊皆空」を説明したと考えられる。五蘊は、釈尊の苦諦を要約した 五取蘊であるから、これが空虚になれば苦は消滅する。玄奘が「度一切苦厄」を加えたのは、ここでの五蘊が五取蘊であって、我執以外の何物でもないことを強調したのであろう。別の意味に誤解されたくなかったので「度一切苦厄」を加えたものと思われる。般若波羅蜜多に於いて 「照見五蘊皆空」である。智慧の完成すなわち到彼岸に於いて五取蘊を見たらその自性は空であった。ここでは(iha)(すなわち般若波羅蜜多では)、 諸法は空性であり、あらゆる執着が無い、苦集滅道も無い。これに共通するのが釈尊の筏の譬喩である 3)。苦の此岸から楽の彼岸に渡ったなら筏を捨てる、同様に彼岸に於いては法(すなわち苦集滅道)も捨てる。このように筏に喩えて釈尊は無執着を説かれた。

般若理趣経

 般若理趣経 7)は真言宗で最も良く読誦される経典であるが、その本文の初 めに「妙適清浄」すなわち「性愛も清浄」で始まる十七清浄句がある。般若 波羅蜜多に於いて清浄なのである。清浄について釈尊の説法を参照してみる 8)。釈尊は「諸行(すなわち五蘊)は無常であり、苦である(すなわち思い どおりにならない)から、我がものではない、我ではない、と般若の智慧で 見るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる、これこそ人が清らかになる道 である」と説かれた。これに対応して、理趣経では「それは何故か、すなわ ち一切諸法自性清浄、一切諸法の自性は空性だから般若波羅蜜多の清浄を有 するのである」というのが清浄である根拠である。斯くして、我という執着 を完全に無くした状態(般若波羅蜜多)では、すべてが清浄となる、これが 大楽である。この最も楽な暮らしこそが密教福祉であると考えられる。

秘密曼荼羅十住心論

 善無畏三蔵は大日経住心品における劫(kalpa)を妄執と解釈した 9)。空海はこの解釈を受け継いで十住心論を展開した。最も苦しい生き方は渇愛のままに生きる第一住心である。妄執を離れた度合いによって、第一から第十まで、苦から楽に向かって仮に十の綱目に、人の生き方に関する文献を研究して分類した。そして最も楽な暮らしが大楽であり第十住心の密教であるが、 この立場では妄執の有無という執着も無くなるので、十住心すべての生き方 が平等となる。このように、密教の立場からは、あらゆる生き方が肯定され るのであり、密教的ケアも我執を離れた平等性智の立場からなされなければ ならない。さらに十住心は九顕十密とも解釈され「菩提心を因とし、大悲を 根とし、方便を究竟となす」という三句に基づく住心の展開の次第でもある。 この三句こそが密教福祉の原点と考えられる。我執を離れた「菩提」(悟り) を原因とし、他者の苦を抜こうとする「悲」を根拠とし、苦しむ人に近づく 「方便」を究竟として、曼荼羅が展開するのである。

密教的ケア

 密教的ケアを「密教に基づいた宗教的ケア」と考える。QOL(Quality Of Life、生活・生存・生命の質)を高める為の四つの柱として、身体的ケア、 精神的ケア、社会的ケアさらに宗教的ケアが西洋では大事にされてきた。し かし日本の医療や福祉の現場では、宗教的ケア(spiritual care)は殆ど行 われていないのが現状だ。

 我々の介護老人保健施設看清坊には等身大の聖観音菩薩像(鎌倉時代作) や両部曼荼羅等があり、僧侶であり施設長兼医師である私の他に、常時もう 一人の僧侶がいて要介護老人の悩みの相談に応じている。時には入所者の所 へ菩提寺の僧侶がお見舞いに訪れる。キリスト教信者の入所者の所へキリス ト教の神父が訪れたこともあった。病院や福祉施設に僧侶が居たり訪れたり するのは西洋では当たり前のことなのだが、日本では稀である。

 日本の医療を実地研究した「治る胃癌と死に至る胃潰瘍」という皮肉な題 名の論文が、イギリスの学術雑誌『社会科学と医療』に掲載された10)。社会 学者と医者が、長い期間をかけて日本の種々の医療機関を調査した論文であ る。「日本の医療は変わっている。西洋の医療とは全く違う。日本の病院に は僧侶がいない、大きな病院にも小さな診療所にも宗教的ケアを担当する者 がいない」という、西洋にしてみれば驚くべき報告である。生命に関して、 生存期間の延長は医学という科学で扱うことができる。しかし、その生命を 如何に生きるかという非科学的(すなわち反証不可能な)問題は医学の範囲 外であり、医者は役に立たない。日本では、治らない進行胃癌の患者に医者 は胃潰瘍だと嘘をつく。治る早期胃癌の患者には真実を告げる。これが論文 の題名の意味である。治らない場合に真実を告げたら、僧侶がいないから後 が困る。限りある命を如何に生きるか、すなわち宗教的な問題を相談できる 僧侶がいないのである。嘘をついていれば、僧侶の協力は必要ではない。

 『メディカル・トリビューン』 ウィークリィ・ブレテン一九八八年五月 一六日のポスターにアメリカと旧ソビエトの癌専門医が衛星通信で話し合っ た記事があった11)。癌告知の問題について、ソビエトの癌学会会長のニコ ライ博士は「癌と知らされた患者は精神的重圧を感じ、病状に悪影響を与え かねない。告知をするとすれば治療に当たって患者の協力が必要な場合に限 られる」と述べた。これに対して米国側からは「癌の告知は当然」とする考 え方が示された。この違いは何故であろうか。旧ソ連は宗教を否定した。ソ 連の病院には宗教を担当する人はいなかったであろう。一方、アメリカは、 宗教で建国された国で、いわゆる信教の自由を実現している。病院にはチャ プレン、すなわち宗教的ケアの担当者がいる。命の問題に関して、医学とう い科学は延命を担当する。その命をもはや延ばせなくなったとき、医学だけ の病院では、もはや命に関しては何もできないことになる。延命不可能、す なわち「医学では何もできない」と言うには「医学以外の何か」が必要にな る。そして、その「何か」があるとすれば、それは患者本人にとって「自己 の命を超えた価値」すなわち宗教なのである。

宗教的ケアの貧困が癌告知を妨げている

 先日私が委員を務めている倫理委員会で、ある種の非常に予後不良の癌の 治療に関する研究の審議の際に、研究者から日本の特殊事情が切実に訴えら れた。それは患者をサポートする体制の貧困さであった。どんな治療を受け ても数ヶ月しか生きられないという現実を、患者本人に言えない場合もある というのだ。厳しい真実を告げた後のサポート体制が無いからという。本人 に知る権利があること、そしてインフォームド・コンセント(情報を知らさ れた上での自己決定権)の原則も充分に理解しているが、それでも本人の為 を考えると、どうしても言えない場合もあるという。西洋の病院では、厳し い現実を告げられた後の患者を全人的に支えるチームが組織されているが、 日本には無い。医師が真実を告げた後、患者は放置されることになる。イン フォームド・コンセントは生命倫理の根本原則であるが、単純に知らせれば 良いというわけにはいかない。単に理解すれば解決する問題ではないのであ り、厳しい現実に対して全人的な支えが必要なのである。

 「公的情報に関しては公開し、個人的な情報に関しては本人の自己決定権 を尊重する」という原則は、単純なようで難しい。我々は次のような質問用 紙を用いている。

説明と同意(インフォ−ムドコンセント)に関する最初の質問

 もし貴方の病気が進行した癌だと診断された場合、癌であることを貴方本人に話してよろしいですか?

それとも本人には話さずに誰か別の方に説明を聞いていただきますか?

  1. 私本人に話してほしい
  2. 私本人は癌の病名を知りたくない
  3. その他 (                   )

「1.私本人に話してほしい」と答えた方に質問します。家族の方にも病気の説明を していいですか?

  1. 配偶者に話してもいい
  2. 子供に話してもいい
    (その方の氏名                 )
  3. その他 (                   )

「2.私本人は癌の病名を知りたくない」と答えた方に質問します。どなたに病気の 説明をしてほしいですか?

  1. 配偶者に説明してほしい
  2. 子供に説明してほしい
    (その方の氏名                 )
  3. その他 (                   )

平成  年  月  日

本人署名           

 インフォームドコンセントの概念は、ナチスの行った人体実験を裁いた ニュールンベルグ裁判の綱領で1947年に確立された。その後1964年、「社会や科学の進歩の為よりも患者個人の利益と自己決定権を優先する」という世界医師会でのヘルシンキ宣言を経て、現在では日常の診療においても尊重されるべき原則となっている 12)。しかし、この原則が確立して半世紀が過ぎた現在でも、日本では本人に無断で家族に病状の説明が行われてしまうことが多い。このような風潮は、昭和四十三年新潟で行われた癌治療学会での国立がんセンター総長の講演「癌患者にその癌を知らしむべきか」の影響も大きかったと思われる。そこでの有名な「癌告知を受けた高僧の話」は、先輩医師から後輩医師へと語り継がれ、癌の病名を患者本人に告げないことの言い訳に使われてきた。厳しい予後の病名を告げることは、患者に大きな精神的苦痛を与えることになる。だから、患者本人の為を思って、癌の病名を知らせない方がいいという意見である。しかし、人生の残り少ない時間を有効に使う為には、自分の病気についての情報を知 ることが不可欠である。知りたいが、知ったら苦しむ。知らせてもらうか、 知らないままでいるか、これを決めるのは医師や家族ではなく患者本人のはずだ。

 高齢者介護にかかわるインフォームド・コンセントの問題に痴呆症があ る。日本ではアルツハイマー型痴呆症等の本人への病名告知が殆ど行われ ていない。痴呆症は、ある面では癌よりも辛い病気である。脳の機能が次第に落ちていくと、全身のあらゆる機能が失われていき、ついには食べることも出来なくなり死んでいく。高齢社会の先輩国スエーデンでは、痴呆症チームが組織的に痴呆症患者を捜し出し、その後の人生を自己決定できる早期に本人へ痴呆症の病名を告げている。グループホーム等の充実した痴呆症ケアが本人への病名告知を可能にしているのである。スエーデンの病院や福祉施設では診察室前の廊下など多くの場所に聖書の書棚がある。沢山の聖書が置いてあって、診察待ち時間等に読めるように用意してあるのだが、これらの聖書は近くのキリスト教会が置いてゆくのだそうだ。僧侶が病院に出入りするのは当然として、図書館職員が病室に出向いているのには驚いた。公立図書館の職員が、移動する書棚を病院へ、そして病室まで持って行って、病床に横になっている入院患者の読書の相談に応じている。入院患者の多くは、図書館に行きたくても行けない。どんな本を読んだらいいのか、自分で探すのも難しい。スエーデンでは、図書館の職員は、病院に出張して読書の相談に応じるのが当たり前だそうだ。さらに、目が不自由で字が読めなくなった人に対して、本を読んで録音したテープを届けるのも図書館職員の仕事だそうだ。病院や福祉施設は、どこでも図書が充実している。これらの書籍は、図書館の膨大な蔵書から貸し出している。貸し出した書籍を定期的に入れ替える仕事も、どんな本を読みたいかという嗜好調査も、図書館職員の仕事だそうだ。このような体勢は、何も図書館職員に限ったわけではなく、様々な分野の人々が協力して、一人一人の一度しかない人生を全人的に支えているのだ。その全人的なケアのチームの一人として僧侶が必要なのである。

全人的ケア

 実存分析を提唱したV.E.フランクルは、すでに一九五二年に全人的の四要素について言及している。アウシュビッツ収容所内で死亡した彼の妻に捧げられた著書「AERZTLICHE SEELSORGE」は直訳すれば「医者(医療)のスピリチュアル・ケア」であるが、邦題『死と愛・実存分析入門』14)と されて翻訳出版されている。人間存在の四つの本質的に異なる各層として、生理的、心理的、社会的そして実存的な層を区別した。通常は他の層がより重要かもしれないが、実存的な層も必要であり、実存分析は科学と宗教の境界領域に位置するという。スピリチュアル・ケアは宗教的ケアと訳されることが多いが、自分の命が失われる苦しみのケアである。そして、末期癌患者のQOLを高めるケアであるホスピス・ケアにおいて身体的、精神的、社会的ならびに宗教的という四要素が注目され、次第に普及していった。さらに最近では健康の定義にもかかわるようになっている。WHO(世界保健機関)憲章における「健康」の定義は “Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.”「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」(昭和二六年官報掲載の訳)であるが、一九九八年WHO執行理事会で改正案が示され、賛成二二、反対〇、棄権八で総会で検討されることになった。すなわち”spiritual”「宗教的」にも福祉の状態であることが付け加えられたのだ。QOLの四次元のすべてにおいて幸福な状態が健康なのである。 このような全人的ケアを行うためのチームの一員として僧侶が必要なのだ。 従って宗教的ケアの基本として、他の領域と自分の領域の境界について、 そして宗教的な領域の具体的問題の所在について知ることが必要である。

医学の限界

 近代医療の根拠として二種類の文献がある。科学論文と古典文献だ。モダン(近代)という言葉はルネッサンスのヒューマニスト達によって造られたそうだ。彼らが行なったように、古典を研究し如何に生きるかを考えることがヒューマニズム(人文学)という言葉の原義だ。人文学に加えて、もう一つ近代を特徴づけるものに科学がある。これら科学と人文学は、厳しく批判されて選ばれるという点では共通しているが、そこで使われる言葉は全く異なっている。科学では、一義的に定義された解釈不要の言葉を用いて、反証可能な論文を書く。すなわち実験と観測というテストによって自分の間違いが検証できる形で提出された論文の集積が科学である。従って、膨大な現代医学の論文は何らかの意味で前の論文を否定する。そしてその論文もまた何時の日か否定される運命にある。科学としての近代医学は「インデックス・メディクス(医学論文索引)に載っている論文の全体」ということができるだろう。一方、古典の研究である人文学では、言葉が先に与えられている。それらの言葉は多義的であり、追体験という解釈が必要だ。そして人文学においては、真か偽か検証される言葉よりも、行為(身語意の三業の一つ)としての言葉が重要になる。

 医療の問題で、その答の真偽が検証可能な場合には、科学が最も信頼できる根拠となる。世界中の医学会での批判に晒されて、自己反省を繰り返しているからだ。しかし、答えが反証不可能な問題に対して科学は無力だ。例えば、この限りある命を如何に生きるかという問題である。どの生き方も、実験と観測というテストによって、間違いを検証することは出来ない。答は科学の問題の場合と違って沢山あることになる。様々な生き方の中から「私はこの生き方を選ぶ」と言えるだけだ。そして我々には選択の根拠として、空海が多くの古典を集めて研究し分類した十住心があるのである。多くの古典に認められる「人の生き方の理想」の特徴の一つに「自己の命を超えた価値」というものがある。もしも自分にとって自分の命よりも大事な価値あるものがあったなら、それはその人の宗教といってよいだろう。ここで宗教的ケアというとき、この意味で宗教という言葉を用いる。自分の命が失われるという苦に対するケアであるからだ。例えばプラトン著 『ソクラテスの弁明・クリトン』15)に示されているソクラテスが命を捧げた理想「フィロソフィア」はソクラテスにとっての宗教だ。ソクラテスに呼びかけるダイモーンはソクラテスの宗教というよりも、釈尊に呼びかける梵天に共通するところが多い(天とダイモーンも共通の印欧語に由来している)と思う。

老病死という苦

 「生命」の問題にはしばしば科学で扱えない非合理がつきまとう。非合理な問題を扱うときには、医学という科学とは別の根拠が必要になる。医者であった森欧外は、江戸時代の随筆『翁草』に二つの主題をみつけて小説『高瀬舟』を書いたという16)。その主題の一つは、生命の延長と苦しみの軽減が両立不可能という矛盾であった。無常と苦は仏教の問題でもある。もう一つの主題は、欲望が制御された結果、苦がなくなったということであった。これは涅槃で、仏教の答である。『高瀬舟』と同じ状況、つまり苦しみの軽減と生命の延長が両立不可能な状況での二者択一は、非合理の代表である。寝たきり痴呆老人が食事摂取不能となった時に苦しむ時間の延長につながる強制栄養を行なうかどうかの二者択一、延命できる可能性が少ない場合に副作用の強い癌化学療法を行なうかどうかの二者択一等、「老病死」という仏教の根本問題には非合理な状況が含まれている。さらに、「私の命」と「他人の命」、譲り合えますか、という非合理がある。脳死臓器移植のように、自己の生存の為に他者の非生存が要求されるような場合である。そしてさらに、癌の告知のように「話せば解ること」でないことを話さなければならない状況がある。

 我々の施設では入所時に、延命と苦痛緩和が両立不能の場合は?、DNR (蘇生術の拒否)を希望するか否か?、危険を承知した上で喫煙したいか?、 飲酒したいか?、宗教は?、菩提寺は?、等を質問用紙を用いて聞いてい る。このような質問を手がかりとして、食べられなくなった場合に内視鏡 的胃瘻造設を希望するかどうか?、呼吸が止まった場合に気管内挿管をし て人工呼吸器を使用するか否か?、等本人の希望を確認しておくことが望ましい。ターミナルケアの場合には、あらかじめ本人の希望を聞いておいて、本人の望むように最期を迎えられることも多い。このような場合には、望まれた場合を除いて、医師は必ずしもベッドサイドで臨終に立ち会う必要はなく、必要なのは死亡の診断である。本人がそばにいてほしいと望む人々が臨終の際には付き添うべきである。本人が希望すれば僧侶が付き添って臨終行儀17)もできるのである。

行為としての言葉

 仏教では釈尊以来「身語意の三業」だが、真でも偽でもない行為としての言葉が注目されたのは西洋では近年のことのようだ18)。釈尊の対機説法は「応病与薬」と薬に喩えられる。高血圧の人には血圧を下げる薬が、低血圧の人には血圧を上げる薬が用いられるように、時と場合によっては全く逆の言葉が用いられる。法は苦を除くための方便だ。医学でも薬はミッテルと呼ばれた。さらに「筏」に喩えられる無執着は、一切の執着を離れて、仏教(執着を捨てるということ)自身にもこだわらずに、様々な生き方(他宗教)を平等に肯定する。

 僧侶は釈迦牟尼(沈黙の聖者)をお手本として、患者の前では可能な限り沈黙し、悩み苦しむ者の声を聞くべきである。患者にとって残り少ない貴重な時間を、僧侶の自己主張で浪費すべきではない。発言が許されるとすれば、それは主に患者から答えを求められた場合である。密教的ケアの現場で患者から問われた場合、菩提心を因とし大悲を根とし方便を究竟とするという三句の立場で答える。相手の生き方を尊重しつつ苦を抜く対機説法に努める可きである。しかし、密教について問われた場合には、可能な範囲で答えるのもよい。法要や護摩祈願も可能である。本人が三密加持を体験したいという場合には月輪観や阿字観 19)がある。最後に我々が使用している阿字観次第を示して本稿を終わる。

阿字観法

  1. 入堂 手を洗い、口をすすぎ、心身を浄めて道場に入る。塗香。
  2. 三礼 阿字観本尊の前で起居礼。
  3. 着座 姿勢を正してしかもゆったりと安らかに座る。
  4. 浄三業 未敷蓮華合掌
    観念「蓮華は泥中にあっても浄らかなように、この私の身も心も、 本来すなわち般若波羅蜜多において清浄である」
  5. 発菩提心 金剛合掌 「おん ぼうじしった ぼだはだやみ」 三返
  6. 三摩耶戒 金剛合掌 「おん さんまやさとばん」 三返
  7. 五大願 金剛合掌
    「衆生は無辺なれども 誓って度さんことを願う
     福智は無辺なれども 誓って集めんことを願う
     法門は無辺なれども 誓って学ばんことを願う
     如来は無辺なれども 誓って事えんことを願う
     菩提は無上なれども 誓って証らんことを願う」
  8. 五字明 金剛合掌  「あびらうんけん」 七返
  9. 調息 法界定印を結んで静かに呼吸し息を調え心を静める。阿息観。
  10. 月輪観 法界定印
    目を半眼にして掛軸本尊の月輪を見つめ、目を閉じて、自分の胸の中に月輪を 引き入れる。その月輪をだんだん大きくしていって、その中に自分がすっぽり納まる。さらに建物の大きさの月輪、この町の大きさの月輪、地球の大きさの月輪、宇宙全体の月輪と広げていって、また逆に縮めていって、本尊に戻す。
  11. 阿字観 法界定印
    目を半眼にして阿字観本尊を見る。月輪、蓮華、阿字の形と色を充分に観じる。静かに目を閉じて、眼前に阿字観本尊を観じる。眼前に明瞭に阿字観本尊が観じられるようになったら、胸中に引き入れて自分の胸の中に阿字観本尊を観じる。 胸中の阿字観本尊をだんだん大きくしていって、自分がすっぽりと阿字観本尊に 入る。本尊は自分の中に入り、そして自分が本尊の中に入る。月輪に円満した徳、すなわち貪欲を離れる清浄、瞋恚を離れる清涼、そして愚痴の闇を照らす光明を観じる。八葉の蓮華に清浄なる自分自身の心臓、大悲胎藏曼荼羅の本体を観ずる。 阿字に空・有・不生なる本来の自心を観じる。しばらくしてから、本尊を元の掛 軸本尊に返す。
  12. 経 金剛合掌
    般若心経一巻を唱える
  13. 回向 金剛合掌
    「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に 仏道を成ぜんことを」
  14. 三礼 阿字観本尊の前で起居礼。
  15. 出堂 金剛合掌したまま、静かに道場から出る。

文献

1) 津田真一訳『秘密曼荼羅十住心論』.中央公論社「大乗仏典(中国・日本篇)18空海」
2) Magee B.: Modern British Philosophy; Conversation with Karl Popper. Oxford University Press, Oxford, 1986
3) 中村元訳:『原始仏典』仏伝、原始経典.筑摩書房,東京,1974年
4) 増谷文雄訳:『根本仏教』阿含経典講義.筑摩書房,東京,1980年
5) 水野弘元編:『パーリ語仏教読本』.山喜房佛書林,東京,1957年
6) 中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』.岩波書店,東京,1991年
7) 栂尾祥雲著『理趣経の研究』.高野山大学出版部,高野山,1930年
8) 中村元訳:『真理のことば・感興のことば』ダンマパダ 277-9.岩波文庫,東京,1978年
9) 勝又俊教訳註:『大日経疏上』. 真言宗豊山派宗務所,東京,1983年
10) Long,S.O.,Long,B.D.: Curable cancers and fatal ulcers; Attitudes toward cancer in Japan: Soc Sci Med,16:2101-2108,1982.
11) 『Medical Tribune ウィークリィ・ブレテン』Vol.1/No.15 1988年5月16日
12) 太田和雄・石垣靖子編:『癌診療におけるインフォームド・コンセントの実践と検証』.先端医学社,東京,1994年
13) 久留勝:「癌患者にその癌を知らしむべきか」: 日本医師会雑誌,62:724-728,1968
14) V.E.フランクル著,霜山徳爾訳:『死と愛・実存分析入門』.みすず書房,東京,1957年
15) プラトン著,久保勉訳:『ソクラテスの弁明・クリトン』.岩波文庫,東京,1963年
16) 森鴎外著:『山椒大夫・高瀬舟』高瀬舟縁起.新潮文庫,新潮社,東京,1968年
17) 神居文彰他:『臨終行儀』日本的ターミナル・ケアの原点.北辰堂,東京,1993年
18) J.L.オースティン著,坂本百大訳:『言語と行為』.大修館書店,東京,1978年
19) 栗山秀純訳注:『科学時代のヨーガ』阿字観用心口決.サイエンスハウス,東京,1986年